
ちまたに恋愛教本はたくさんある。
相手を理解したい・理解されたいと心底願う男女の数とは裏腹に、
その大半がお互いをわかりあえずに終わる。
なぜなのか?
それは、互いの性の根本となる世界観が全く異なるからである。
世界観が違うというのは、いったいどういうことなのか。
男女を性質に変換し、さらに文字にすると、よくわかる
たとえば、「一番正しい」という言葉。
一番=男性性、正しい=女性性のキーワードだ。
しかし、これは成立しえない。
なぜなら、「一番」規則に則って決められる客観的なものであるが、
「正しい」は人それぞれの主観的なものだからだ。
「一番正しい」など、そもそもこの世に存在しえないことなのである。
また、「物理的な喜び」なんかもそうである。
(「幸せを得るための物理的な手段」ならわかるが)
物理=男性性、喜び=女性性のキーワードであるが、
「喜び」は言葉の定義からして精神的なことであって、物理では到底測りえない。
よって、「物理的な喜び」なんてものもこの世に存在しえない。
どちらの文も、一見ありえそうに思える。
しかしそれは完全なる錯覚で、実際のところはどうあがいてもこの世に存在しえないのである。
男女の関係もこれと全く同じである。
「分かり合えた男女」というのは、一見ありえそうに思える。
しかしそれも錯覚で、実際のところはどうあがいてもこの世に存在しえないのである。
しかし、よく考えたらあたりまえのことである。
私たちは生殖行為の際、
しばしば身体全体が「繋がっている」ような表現をするが、
あくまで実際に身体的に「繋がることができる」のは、ほんの一部に過ぎない。
身体がそうなのだから、精神も同じだと考えるのが妥当である。
つまり、
しばしば魂全体が「繋がっている」ような錯覚に陥るが、
あくまで実際に「繋がることができる」のは、ほんの一部だけなのだ。
だが、それで十分であるのも事実だ。
身体的に一部のみの「繋がり」だとしても生殖の目的は達成できる。
同じように、精神的にも一部だけ「繋がり」があれば、それで十分に幸せを得ることができるのだ。
ようするに、男女は永遠にわかりえないが、
全てをわかち合えなくとも、それで十分なのである。