
こんにちは。文です。
皆さんは、真実を知りたいと思ったことがありますか?
私は有りました。
大学時代
「この世の中の誰よりも真実を知りたい!」と躍起になって
いいところまでいったのですが、
そこから全ての限界を悟ってしまい、
自○寸前まで行ったことも…。
当たり前のようにうつ病を発症し、
危険な状態になってしまいました。
ところで、鬱病患者は、
「悲観的なのではなく、むしろ世の中を正しく見ている」
という実験結果があります。
https://www.vice.com/en/article/8x9j3k/depressed-people-see-the-world-more-realistically
「一部の心理学者は、人間が幸福であるためには自己欺瞞的な要素が必要かもしれないと認めています」
とFeltham教授は述べ、
一般的な人々は多少の幸福な妄想をし続けている状態にあるかもしれないとのこと。
一方、うつ状態の人々は幸福な妄想を受け入れることができず、
より現実を直視してしまいがちな可能性があります。
あまりに真実に近づきすぎれば
精神を病んでしまうみたいです。
それは人間があまりに低スペックで
いかに儚いかがわかってしまうからでしょうね。
真実を知ることは危険が伴いますが、
それでも真実を知りたいですか?
真実を知る旅は
最終的にどんなところへたどり着くでしょうか。
そこには
「真実を知れない」という
真実が待ち受けていました。
人間は賢い生き物?
さて、私達の脳がいかにポンコツなのかを知るため
手初めにこの問題を解いてみましょう。
プレーヤーの前に閉じた3つのドアがあって、
1つのドアの後ろには景品の新車が、
2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。
プレーヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。
プレーヤーが1つのドアを選択した後、司会のモンティが残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレーヤーは、最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。
ここでプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?
一度選択した
「ドアを変更」するか、しないか。
知っている方もいそうですね。
正解は、
「ドアを変更する」です。
いかがでしょうか。
間違えてしまった方も多いのではないでしょうか。
こんな問題、AIだったら一瞬で解けていたでしょう。
では人間はそれほど賢くないのか?
いいえ、間違えてしまったからこそ「賢い」と言えるのです。
認知バイアス
恒常性バイアスと生存戦略
私達の脳は、いつでも素早く判断をするために
色々な仕組みが散りばめられています。
代表的なものが「錯覚系のもの」(後ほどご紹介します)ですが
今回の問題を誤答してしまいやすいのは
「認知バイアス」、
いわゆる「思考の錯視」と呼ばれるものが
大いに関係しています。
その中でも
「恒常性バイアス」
というものの影響が強いでしょう。
恒常性バイアスは、「認知バイアス」の一種で
「一度決めたものを変えたくない」というバイアス(心理の傾り)のことです。
例えば、寝るときは「もう少し起きていたい」と夜更かしをしてしまうのに、
起きるときは「もう少し寝ていたい」とギリギリまで寝ようとしてしまったことはありませんか?
それも「恒常性バイアス」の影響です。
人間は無意識に、現状維持の方向を歩んでしまうようです。
認知バイアスは、この他にも
「損失回避バイアス」=得をするよりも損を避けようとするバイアス
「ハロー効果」=目立ちやすい特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められるバイアス
など、
数え切れないほどたくさんのものがあります。
視覚に関する矛盾
目の錯覚と五感
話に入る前に、クイズをしましょう。
まず初めにこちらの画像の黒い点を見ていてください。
一定時間経過後に画面の色が変わるので、
それがカラーだったか、白黒だったか
当ててみてください。
(引用元:https://www.chietoku.jp/wont-believe-your-eyes/)
…答えは決まりましたか?
では、正解発表です。
最後の画像は白黒でした。
でも、多くの方は色付きに見えたんじゃないかと思います。
これは、「錯視」の一種類である「残像効果」と呼ばれるもので、
人の視覚で光を見たとき、その光が消えた後も、
それまで見ていた光や映像が残って見えるような現象のことです。
認知の限界
明らかに目が錯覚を起こしていました。
しかし、この機能がなかったら
人間は急激な色の変化に対応することができず、とっさの判断が難しくなってしまいます。
カラーぽく見えたのは、ある意味正解なのです。
言葉に関する矛盾
「卵が先か鶏が先か」卵と鶏のパラドックス
続いて質問です。
「この世に先に存在したのは、卵か、はたまた鶏ですか?」
少し考えてみてください。
…答えは出ましたか?
この問は
「卵と鶏のパラドックス」といい、
昔から世界中で考えられている問題です。
というのも、卵が先と答えても鶏が先と答えても
矛盾が生じてしまうのです。
鶏が先となると、「その鶏はどこから生まれたの?」
卵が先となると、「それは誰が生んだの?」
…と、問の無限ループが始まります。
さて、
この問題に対して、とある科学者は、こう結論づけました。
結論から言うと、【鶏が先、派】が勝利!
イギリスのニュースサイト『The SUN』によると、
科学者たちが「卵より鶏のほうが先に誕生した」と結論付けたのだそうです。
イギリスの研究チームは、OC-17と呼ばれるたんぱく質が
卵の殻の結晶化を促進させる働きがあることを突き止めました。
このたんぱく質は鶏の卵巣のなかにも存在し、これがなければ卵ができないことも判明したのだそうです。
そのため「鶏がいなければ卵ができない」ということに!
つまり、卵を作るための物質が鶏にあるから、鶏がないと卵が作れない
→「鶏のほうが先」という答えですね。
しかし、この主張は反論を喰らいました。
それがこちら。
他の鳥類は卵の形成に別のたんぱく質を利用しており、OC−17の進化は卵の進化と同時に起こったのではない。
鳥類が爬虫類から分岐する以前より卵の形成に使われてきたたんぱく質は別にあり、
OC-17はそれを発展させる形で出現した。
つまり、OC-17がなくても卵はできる!
要するに、「卵を作る物質」自体は、別に鶏がいなくても存在し得る
→だから「卵が先」な可能性もある
ということだそうです。
この問題、最終的にどうなったかというと、
ついには「宗教ごと」に異なる答えが出たり、
さらには仏教徒による
「時間は永遠だからどちらでもない」のような答えも出るようになっていきました。
もう、言いたい放題です。
というわけで、
この問題を解決するには少し骨が折れそうですが、
まずは
【そもそも、「卵」とはなに?】
【「鶏」とはなに?】
そこを定義することから始めてみましょう。
言葉の限界
「定義することからはじめてみましょう」とは言ったものの、
どう定義すればよいのでしょう。
「卵」の定義ですが、
例えば先程の科学者は、卵を「OC-17」だと定義しました。
しかし、定義するべきは「卵」でした。
「卵を作る物質」ではなかったはずでした。
そしてこの問は【卵が先か?鶏が先か?】なのであって、
「卵の構成物質が先か?鶏の構成物質が先か?」でもなかったはず。
そもそも、
「鶏」といっても、古代の鶏なの?現代の鶏なの…?
と、定義への質問はつきません。
「誰が定義してるの?」
「どう定義するの?」
定義の段階で、まず難しい…。
それもそのはず、
【卵が先か?鶏が先か?】の問の答えは、
定義次第なのです。
だから、極端な話、
「卵=先に存在する鶏が創り出したもの」
「鶏=卵を産むために生まれた生物」
という定義を付けてしまえば
その時点で定義的に「鶏が先」
ということになります。
私たちは言葉を通して物事を考えます。
まず認知が歪んでるのに、更に言語も歪んでいるなんて、
私たちが見ている世界の真実味がますます薄くなってきましたね。
客観世界と主観世界の矛盾
二重スリット実験
まだまだありますよ、人間の矛盾。
量子力学に、「二重スリット実験」というものがあります。
これはつまり、「観察したら形が変わる」ということについて証明している実験です。
もう少し抽象度を挙げると、
「客観世界が主観世界へ影響を与える」ということです。
客観世界が主観世界へ影響を与えるということは、
実は投影の法則や引き寄せの法則からも明らかにされています。
客観性の限界
「客観的に見る」といいますが、
人間ははなから客観的に見れないのです。
なぜなら、客観世界は、すなわち主観世界でもあるからです。
こう書くとすごく難しいですが、実際はもっとシンプルです。
例えば、みなさんが物凄く辛くて苦しい状態にあるとします。
しかし、友人に
「どうしたの?つらいの?」
と尋ねられると、心配をかけたくない気持ちが強まり
「ううん。全然!平気だよ!」と答えた、という経験があると思います。
すると、友人からみた世界(客観世界)の結果が
「つらそう」から「大丈夫そう」に
つまり、主観世界が客観世界の結果を塗り替えることになるのです。
これは、私達の細胞でも行われています。
例えば、涙が止まらない時
細胞たちに「なにか苦しいことあったの?」と聞きますが
仕事は忙しいし、人間関係は大変だしでこれ以上混乱させたり心配させたくない時
細胞は私達に「平気なフリ」をします。
すると、私達は
「なんか涙が止まらないけど、別に大丈夫だしなあ…」と認識します。
(だから精神的な病を放置してしまう患者がたえないのです)
矛盾しかない人間
矛盾のまとめ
さて、これらの矛盾を通して、
いかに人間の頭がアホかということを説明してきました。
どんな正解を求めようとも、
「必ず認知は歪んで」いること
おわかりいただけたでしょうか。
なぜ正しいことを知れないのか
しかしなぜこんなにも認知が歪むのでしょうか。
・人間は、遺伝子の乗り物にすぎず、生存と生殖を第一の目標においていること
・その目標達成には素早い判断が必要なこと
・素早い判断のためには真実を知る必要がないこと
これが理由です。
要するに、生きるためには正しさは必要がないので、
そこにこだわった脳を作らなかった、ということですね。
紫外線の可視化ができないのと同じです。
紫外線を可視化できてしまったら、
不要になるどころか、むしろ情報過多になってしまって
生存率が下がってしまいますからね。
不幸の原因は、むしろ
得すぎる事による場合のほうが多いのです。
ちなみに、幸福にも限界があります。
真実と同じで、
「多すぎることは生存と繁殖に不要」だからです。
というわけで、私達が知ることのできる「真実」には
限度があることがおわかりいただけたと思います。
孔雀が綺麗な羽をつくるように
オウムが擬声を発達させたように
人間は知能を発達させました。
試行錯誤の末、生物として生存と繁殖の観点を捨てさえしなければ、の条件で
「正解でないものを正解としていいよ」と許可を得たのです。
なので、いかに「真実だ」と思ったことでも
それは「真実だと思った」にすぎず、
絶対に真実ではないのです。
確証バイアス-なぜ真実を知りたがるか
それでも、まだ「正しく世界を見れる」ことを信じていたい。
それもまた人間のシステムです。
この願望は、
認知バイアスの中の「確証バイアス」というバイアスの影響を受けています。
確証バイアスとは、
「自分がすでに持っている先入観や仮説を肯定するため、
自分にとって都合のよい情報ばかりを集める心理の偏り」のことです。
「正しいと信じる」この心がなければ、
常識も自分の心も何もかも疑ってしまって、何も行動できなくなってしまうのがオチです。
歪んだ世界を歪まずに見たい
その思考そのものが歪んでいて、
だからこそ今、安全に生きていられる面があります。
何かを真実だというふうに信じていないと
恐怖や不安に負けてしまいますから。
私たちは正解にたどり着くことは絶対にないけれど
正解できないことこそが
生物的に「正解」になりえます。
まとめ
それでも、陰謀論などにハマってしまう人もいる通り
「自分だけは真実を知っている」と思っている人もいますよね。
きっと彼らは数年後
あの頃はイタかったな…と反省することでしょう。
そうはいっても、反対に
「複雑なことなんて考えるなよ!」
「どうせ何もわからないよ!」
という半ば諦めな明るさも、私は好きではないです。
しかし、どちらかといえば
残念ながら、諦め半ばな明るさのほうが真実なようです。
冒頭でお話した通り、物事をあまりに正しく見ようとすると、
うつ病になってしまいやすい。
それが加速して、命が奪われてしまえば本末転倒です。
だって真実への欲求は、生きるために生まれたのだから。
どうせすべてを知ることはかなわないのだし、
見えてる範囲だけに集中して、
シンプルに生きるのが得策と言えそうです。