
こんにちは、文です。
この世の中に、幸せを求めない人などいません。
誰もが幸せに生きたいと感じているのに反して
幸せだと胸を張って言い切れる人はほんの少しだけ。
なぜでしょうか?
人間の感じられる幸せには、
実は限度というものが存在するのです。
というわけで今回は、
・「人はどうしてここまで幸せを求めてしまうのか」
・「幸せに限界はあるのか」
ということについて
解説していこうと思います。
「不可幸力」
Vaundyの曲に
「不可幸力」というものがあります。
不可抗力、つまり「人には抗えないほどの大きな力」
をもじったものであり、
抗を幸にすることで
「人には抗えないような幸せへの希求」
という意味を訴えたのでしょう。
多くの人が幸せを願う
ないものねだりをして苦しむ。
その一方、
「吾唯足るを知る」というように
幸せは既に十分にあるから苦しむ必要はない、
といった古くからの言葉もあります。
「いやいや、そういうのいいから
もっと幸せがほしいの!」
と思うかもしれませんが、
まさにそんな人達を皮肉った歌なのです。
実際、有り余るほどの幸せは
紫外線や赤外線と同じように、
人間には認知できないものなのですから。
人間の五感認知の限界
幸せには限度がある
「有り余る幸せは人間には認知できない」
どういうことでしょうか。
人間はかなり長い間生きてきましたが、
紫外線の色をそのまま見れたことは
一度もありません。
紫外線とは、
文字通り
「紫の更に外側の色」
ということです。
人間の目の色彩は、
紫外線を感知できない
つまり、
「人間が見られる色に限界はある」
ということです。
それと同じで、
人知を超えた幸せも得られないのです。
「いや、紫外線って目の話でしょ」
「幸せは視覚とは関係無いじゃん」
と思いますか。
いえいえ、紫外線も幸せも、同じ。
限度があるのです。
人間の認知の限界
概念は、必ず五感
つまり視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚
のいずれかまたは組み合わせを通して
認知されます。
五感=認知なのです。
考えてみてください。
盲目の方に、
色の概念を説明するのは
とっても難しいはずです。
普段私たちは当たり前すぎて意識していませんが
直接物理的な刺激を受けない限り
言葉にして思考はできないのです。
幸せの可視化は可能
ただ、
紫外線を別の色で認知し直すことができるように
(「太陽に当たると色が変わるネイル」
などで存在の認識はできますよね)、
幸せも、
人間に認知できる程度に変換すれば、
認知することができます。
得られる限度はないけれど、
感じられるものを感じる分には
限度はないわけです。
考えてみれば当たり前の話ですよね。
だから、「幸せに気づく」能力こそが重要になってくるのです!
限られた無限
そして、私たちはたしかに紫外線は見えません。
しかし、
現状見える色の組み合わせで
様々な芸術が作られてきています。
私は、それで十分だと思っています。
つまり、幸福は限られているとしても、
その組み合わせの問題です。
これが無限にあるわけです。
「限られた」「無限」というわけですね。
そして、その中から
自分だけの幸福を見つければいいわけです。
不可幸力の社会的な事情
幸せは努力で得るものなのか
このように、
人間が感じる幸せは、
別の形に変換して認識することや
組み合わせることで
あたかも無限にあるような感じがしてしまいます。
しかし、何度も言っているように
幸せには限界があるわけです。
なのにも関わらず
あたかも
「限界はないぞ!」
といったような煽られ方をしている。
「まだまだ幸せを享受できるぞ!」
「生きているうちに贅沢をしないともったいないぞ!」
と。
そんな煽られ方をされれば、
有り余る幸せを享受したいと思ってしまうのも
当然でしょう。
しかし、
人間は努力すれば
紫外線がこの目で見れるようになるのでしょうか。
紫外線がこの目で見れないのは、
あなたの頑張り不足なのでしょうか。
それは違うはずです。
仮に見えたとしても、
人間の目に見えないのは紫外線だけではありません。
紫外線に飽きたら、
超音波を聞きたくなったり
足の関節を外してみたくなるかもしれません。
そこに
「人間はもっともっとできるよ」
と煽りの拍車がかかります。
幸せを強制する風潮の社会
なぜ社会はこんなにも幸福を煽ってくるのでしょうか。
そして私たちは煽りに乗ってしまうのでしょうか。
なぜかというと、
そうしないと人々に「欲求」が生まれないからです。
そして、「欲求」が生まれなければ、
経済が回らないからです。
私たちは、
我々人間の「欲求」には
限度というものがありません。
なぜ限度が置かれていないかというと、
我々の進化の過程で
欲求に限度をつけることに
メリットがなかったからです。
仮に社会が真実に目覚めて
限度以上の幸せを煽るのをやめたら。
「幸せには限度があるから、
今の幸せをめいいっぱい享受しようね」
という雰囲気が漂っていたら…。
誰も何も欲しがらない、
お金の流れが滞り、
経済はたちまち破綻してしまう。
例えばインスタで幸せ姿をさらし
承認欲求を満たす文化がなくなれば
インスタ映えするお店は
たちまち廃れて潰れてしまいます。
それは経済にとって都合が悪いわけです。
「有り余る幸せは人間には認知できない」
全くネガティブなことではありません。
たしかに、人間のできる限りの限界を知ることは
そこに向かって努力することは
すごく楽しくて、
世界を彩り豊かにさせてくれる行いです。
しかし、
その不自由な努力によって
得すぎた不要なものの重さに押しつぶされてしまっては
本末転倒だと思うのです。